好感度の高さって、一体どこから来るのだろう。改めて考える好感度の正体 齋藤薫連載Vol.12

好感度の高さって、一体どこから来るのだろう。改めて考える好感度の正体

好感度を高めることは、私たちの永遠のテーマに思われていた。でもそれだけにとらわれると何か違う方向に行ってしまう。本来、好感度を高めるとはどういうことなのか、ゼロに戻って考えたい。

齋藤薫さん
美容ジャーナリスト/エッセイスト

好感度の高い服……
それは知っておいて損がない、マナーのようなもの

これまで女性誌などでは、好感度を高める方法が散々模索されてきた。好感度の高い服、好感度の高い髪型、好感度の高いリップやネイルの色、そして好感度の高い仕草までが、詳細に研究され、提案されてきたのだ。

もちろんそれが間違っていたとは言わない。ちょうど大人になる過程で、さまざまなマナーがあることを知っておくように、好感度の高い装いや物腰があるのを知っておくのは、とても重要なこと。社会と関わる上で、大切な知識になるからだ。でも実際に社会と関わっていった時、本当の好感度というものが形ではないことを知ることになる。服や髪型や仕草だけで判断されるものではない事実を知ることになるかもしれない。

好感度とは言うまでもなく「人がどれだけ良い印象を持ってくれているか」の度合い。言い換えるならば、それは“人気度”のようなもので、やっぱり人柄が最優先されるということに気づくからなのだ。

好感度の高い服や髪型や仕草は、知っておいて損はないもの。でもその上で、もっと大切なことがあるのを知っている……それこそがホンモノの好感度の高さとなるのではないだろうか。

誰にも嫌われないことと、
誰もが好きになってしまうこととは違う

好感度をあまりにも意識しすぎると、全く個性のない、平凡な存在になってしまう……そういう見方がある。それは、社会で嫌われない、誰にも嫌われない自分を追求することに他ならないから。他者の目を意識しすぎるから、必然的に自分らしさが失われ、個性が失われていくのだ。

なんだかそれでは意味がない。誰にも嫌われないのではなく、結果として誰からも好かれること、それが重要なのだろう。“嫌われないこと”と“好かれること”は、根本的に意味が違う。ネガティブな要素をなくしていくのではなく、ポジティブな要素を増やしていく、それは全く意味が違うはずなのだ。

だから誰にどう思われるかではなく、むしろ反対に、自分自身が周囲の人をどう思うか。どういうことかと言えば、自分自身が相手を好きになれば、ごく自然に相手も自分を好きになってくれる、そういう方程式があることを知っておきたいのだ。

そう、好感度の高い人は、そもそもがあまり人を嫌いにならない、そういう人だということを覚えておきたい。

その相手を好きだから、
美しい自分を作って出かける人が、好感度が高い人

好かれるためにではなく、その相手を好きだから“相手にとって心地よい自分“を作る……それが好感度の高さの正体だということに、ここで気づいてほしい。だからどの服が好感度が高いかということではなく、今日は誰とどこで会うのか、どんな自分を作っていったらその人が喜んでくれるのか、そういう思いで身繕いしていくと、必然的に好感度の高い装いが出来上がるということ。

以前、こんなことがあった。ランチを共にとった人に、「今日は肌が荒れていて、ごめんなさい」と謝られた。肌荒れしていて嫌なのは、その人自身のはずなのに。その真意を聞けば、肌が荒れていたのでは、今日会う人を心地よくできないと思ったからと。美しさとは、本来が自分自身のためのもの、と同時に今日会う大好きな人のためのもの。人にとって心地よい美しさとは、まるでなんの衒(てら)いも計算もないのに人を感動させる美しい景色のようなもので、できるなら、それを目にする人がうっとり気持ちよくなり、清々しくなるような美しさを持ちたいのだ。

つまり人は、美しい景色のように美しくあれということ。それが好感度の高い美しさだということ、覚えておきたい。

【格言】

人は、“感動をもたらす美しい景色”のように美しくあれ。
それが好感度の高い美しさだということ、覚えておきたい

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